白黒映画および三船との決別後
ハリウッドからのオファーを受けるようになった黒澤は『赤ひげ』の撮影後、アメリカで『暴走機関車』の制作を準備、主演にピーター・フォークとヘンリー・フォンダ、撮影監督にオスカー受賞者ハスケル・ウェクスラーが決定していたが、制作方針を巡りアメリカ側プロデューサーのジュセフ・E・レヴィンと深刻な対立が生じたために頓挫(黒澤は65ミリカラーを希望したが、ハリウッド側は35ミリ白黒を提示した)(後にアンドレイ・コンチャロフスキーが黒澤の脚本を原案として映画化)。
1968年に日米合作『トラ・トラ・トラ!』の日本側監督を務めることになったが、製作会社の20世紀フォックスと、撮影スケジュール等の問題から激しく衝突。監督を降板させられた。
この事件は黒澤に精神的打撃を与えたとされており、2年後に自殺未遂事件を起こす。
そして日本の映画産業の衰退の時期と重なったこともあり、この後は5年おきにしか新作が撮れなくなる。1975年にソビエト連邦から招かれ(日本のヘラルド映画社がロシア側に接触して「黒澤を招いた」という形になるようお膳立てした)。
1968年に日米合作『トラ・トラ・トラ!』の日本側監督を務めることになったが、製作会社の20世紀フォックスと、撮影スケジュール等の問題から激しく衝突。監督を降板させられた。
この事件は黒澤に精神的打撃を与えたとされており、2年後に自殺未遂事件を起こす。
そして日本の映画産業の衰退の時期と重なったこともあり、この後は5年おきにしか新作が撮れなくなる。1975年にソビエト連邦から招かれ(日本のヘラルド映画社がロシア側に接触して「黒澤を招いた」という形になるようお膳立てした)。
update:2010年01月30日
